作曲家、音楽プロデューサー。「カリテプリ音楽工房」代表。 1958年大阪生まれ。2004年『悲しい涙は流さない』(あべさとえ)、2006年『Deep Blue』(国土交通省「熊野川オリジナルソング大賞」)、2007年『幻のキャバレー』(メイ)、『誓い』(庄野真代)、2012年『ヒマワリ』(丸石輝正)、2013年『NHK BOSAI体操』、2016年『おともだち2000年』(京都府)など。
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実はカレーの違いがよくわからない。
インド風であろうと、
欧風であろうと、
あるいは家庭料理の延長であろうと、
一定の水準を超えたものであれば、
どれもが充分うまいと感じる。
だからわざわざ計画を立ててカレーを食べることもない代わりに、
毎日カレーを出されても耐えることができる。
以前このブログに書いたこともあるが、
鎌倉の海の家でバイトをしていたとき、
昼食は毎日カレーだった。
仲間は悲鳴を上げていたが、
自分はそこまで苦痛ではなかった。
よほど相性がいいのかもしれない。
神田は「カレーの聖地」と呼ばれることがあるらしく、
適当に店に入っても、
期待を裏切られることはこれまでなかった。
先日内神田を歩いていたら、
どこからともなくいいにおいがしてきた。
短い行列があったので、
最後尾に並んだら、
「スパイスボックス」という、
南インド料理の専門店だった。
用意されたメニューの中から、
自分の好きなカレーを選べるところがありがたい。
写真のミールセットは、
カレーと野菜の煮込み料理をセットにしたもの。
これだけ種類があって、
1,800円はお値打ち価格といえるだろう。
本当の酒飲みは、
酒の種類を選ばないものだ、
と聞いたことがある。
アルコールであれば何でも、
というのが本当の酒好きであって、
銘柄にこだわっているうちは、
素人も同然である、という説がある。
これにならっていえば、
自分はカレーのマニアなのかもしれない。
油で炒めた食材をスパイスで煮込んであれば、
分けへだてなく愛することができる。
鈍いといえばそれまでなのだが、
そんな自分であっても、
「スパイスボックス」のカレーにははっとさせられた。
昼食の時間をとっくに過ぎても、
次から次へと客足が途切れることのない店だった。
「好きな食べ物は何か?」と訊かれて、
「うなぎ!」とか、
「さくらんぼ!」とか即座に答えられる人は、
幸福のすぐそばで寝起きしている人だと思う。
自分は長い間うまく答えることができなかった。
同じ素材を扱うにしても、
調理法にも色々あるし、
料理人によっては別物になるのだから、
そうそう簡単に決めることはできない、
と理論武装したつもりでいたが、
ぼーっと生きていただけかもしれない、とも思う。
自分の欲望の所在に鈍感だけだったような気もする。
自分の周囲の人に同じ質問をすると、
十中八九は明確な答えが返ってくる。
「生牡蠣!」とか、
「カレーライス!」とか迷いのない答えを聞くたびに、
置いてけぼりになったような気持ちを味わっていた。
「素麺!」とか「ガスパチョ!」とか、
そのとき思いついたものを口にしてみるものの、
そしてそれはうそ偽りないにもかかわらず、
何かすべてを語りつくせていないような、
箱の中身をよく確かめず製品を市場に出したような、
後味の悪さが残るのだった。
自分の人生はどこか重心の定まらない、
根無し草のようなものかもしれない。
今年の1月にロンドンのレストランでドーバーソールを口にするまで、
私は劣等感にさいなまれていた。
ドーバーソールのグリルは、
日本でいうところのカレイの塩焼きそのものだった。
けっして安い料理ではなかったから、
英国人もこの料理に価値を見出している、
ということに気が付いたとき、
私は異国で日本を再発見した。
と同時に人間の普遍性のようなものに触れた。
私はそのとき以来、
好きな食べ物を聞かれると「カレイの塩焼き」と迷わず答える。
あの瞬間、人生の歯車が動き出したような感動を思い出しながら。
居酒屋通いも15年以上経つと、
初心者の頃には見えていなかったものが見えてくる。
酒の種類が豊富で、
料理がうまければ文句はないわけだが、
最近ふと疑問が頭をもたげることがある。
居酒屋と料理屋はジャンルが違うのではないか、
とこの頃考えはじめている。
料理屋というのは店が清潔で、
献立の隅々に心配りが行き届き、
ご主人や奥さんの人柄がよく、
満腹と心の充足を与えてくれる場所、
と定義してほぼ間違いがないのではないか。
ところが自分が気に入っている居酒屋を点検してみると、
料理は必ずしも群を抜いているわけではなかった。
本郷三丁目の加賀屋に来たら、
自分は必ずコハダの生姜巻を注文するけれど、
酢漬けの生姜は甘くてくどいし、
海苔は当然しめっている。
他の料理も水準を維持しているものの、
特別の長所はなさそうだ。
ではなぜこの店にくり返し足を運ぶかというと、
ほがらかな客が多く、
陽気なざわめきが店内に充満しているからだった。
料理屋はもくもくと料理を食べる場所だが、
居酒屋は気配を楽しむ場所であるような気がする。
居酒屋を出た自分が求めているのは、
小ざっぱりした気分であるようだ。
床屋で顔を剃ってもらったあとのような、
銭湯で体を温めた帰り道のような、
生まれてきたことを素朴に感謝する気分なのだった。
世の中が少しでもよくなるために、
自分にも何かできそうなことがありそうだ、
と心を高気圧で満たしてくれる。
誰かを励ますことで、
逆に自分が励まされるような、
そんなやりとりが生まれる場所が居酒屋なのではないかと思う。
海外で生活するときは、
始終「何を食べるか」で頭を悩ませている。
飲食店に入るにも、
そもそもメニューが読めないし、
だいたいの見当をつけて注文しても、
質量ともに予想外のものが出てくるので、
飲食が楽しみではなく、
労働のように感じられるようになってくるのだ。
立て続けに何度か渡航するうちに、
だんだん知恵がついてきた。
フォーとかビーフンとか、
単品メニューの店に行けばいい。
中華系の店であれば、
漢字をにらむうちにおよその料理のイメージが湧いてくる。
そんなわけで自分は、
パリでもロンドンでもNYでも、
エスニック料理の事情に詳しくなった。
パリのフォーとか、
NYのビーフンとか、
普通にうまいと思っていたメニューが、
実はずば抜けた存在であることが分かってきた。
東京で同じ水準のものを求めても、
なかなか期待通りにものに出会わない。
人気店や有名店に足を運んでも、
ことエスニック麺に関するかぎり、
NYやパリには及ばないのが実情であるようだ。
世界屈指の美食都市である東京にも死角はある。
そばやうどんやコナモンなど、
あまりにもすぐれたB級グルメがありすぎて、
そこまで手が回らないのかもしれない。
ドーサというのは南インドのクレープのような食べもので、
米粉と豆を挽いたものを発酵させて、
これを薄く伸ばして焼いたものなんだそうだ。
発酵食品ならではの風味と同時に、
外皮は音を立てるほどクリスピーなのに、
生地それ自体には粘り気があって、
矛盾のかたまりのような食感が実に面白い。
さすがのコナモン王国の関西にも、
これに匹敵する料理はないから、
何かの拍子に口の中がドーサになると、
居ても立ってもいられなくなる。
シンプルな食べものは強い磁力を秘めているものだ。
実はニューヨークのソーホーにドーサの専門店があり、
店の前を何度か通ったものの、
次の約束までに時間がなかったり、
店の休憩時間と重なったり、
立て続けに空振りをするうちに、
ドーサへの思いが心の中に沈殿し、
いよいよ動かしがたいものになってきた。
そういえば京橋に南インド料理の専門店があった、
と思い直し「ダバインディア」に行ってきた。
気泡が抜けて、小さな穴が開いた生地は、
ちぎれるときにミシン線を破るような快感がある。
とんがっていた神経を慰撫する効果もあるようだ。