作曲家、音楽プロデューサー。「カリテプリ音楽工房」代表。 1958年大阪生まれ。2004年『悲しい涙は流さない』(あべさとえ)、2006年『Deep Blue』(国土交通省「熊野川オリジナルソング大賞」)、2007年『幻のキャバレー』(メイ)、『誓い』(庄野真代)、2012年『ヒマワリ』(丸石輝正)、2013年『NHK BOSAI体操』、2016年『おともだち2000年』(京都府)など。
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昭和のトマトは、
それほどおいしくなかったような気がする。
全体に水っぽく、
かおりが乏しく、
ぐにゃぐにゃと形が定まらないので、
大変食べにくかった記憶がある。
「意味が分からん!」
という感じだった。
ところが平成も後半になると、
高級なトマトが市場に顔を出し、
全体の水準が引き上げられたのではないだろうか。
今では冷やしトマトは、
居酒屋になくてはならない定番メニューになった。
ここで話はいきなり飛躍するのだが、
資本主義経済は格差を助長するばかりで、
弱者には恩恵がない、という批判がある。
たしかにそういう面もないではないが、
私の目には人類の生活水準は、
おぼつかない足取りではあっても、
少しずつ向上しているように映る。
地球全体で見れば、
絶対的な貧困は減りつつあるし、
暴力死の数は減少している、という報告がある。
何よりも人類の平気寿命が延びているではないか。
こういうことを言うと、
インターネットカフェ難民の存在とか、
子供の貧困率の数字を持ち出して、
がむしゃらに攻撃を加えてくる人が少なからずいる。
相対的な貧困が存在することはたしかだし、
それは解決されるべき問題ではあるが、
経済政策の課題というよりも、
背景にある孤独を解決しないかぎり、
お金をいくらぐるぐる回しても、
循環の輪からはじき出される人は救えない。
「芸人の末路哀れ、野垂れ死には覚悟の前」
と桂米朝は著書に記したものだった。(「落語と私」)
何も芸人でなくても、
個人が好き勝手にふるまえば、
生活苦と向き合うリスクから逃れられないし、
セーフティネットを期待するのであれば、
ある程度窮屈な思いをガマンしなければならいだろう。
大新聞を読んでいると、
この両方を一気に要求するような論調に辟易するが、
声が大きく、
無責任な発言をする人がいるから、
世の中が進歩するのかもしれない。
政治や経済のことは自分にはよく分からないが、
こうして居酒屋に来ておいしいトマトに出会うと、
世界は少しずつよくなっている、と信じたくなる。
文藝春秋の『東京いい店うまい店』は、
料理写真のないグルメ本、として知られ、
長らくジャンルの一角に鎮座していた。
床の間にあった、と言っても過言ではない。
発刊されたのが1967年だというから、
グルメ本の走りであり、
老舗中の老舗でもある。
2年に1度改定されて、
その都度ランキングが変わり、
最新トレンドが紹介されるから、
情報源としての価値もあったし、
何よりも紹介文がおっさんくさくて、
昭和のにおいがぷんしていた。
自分はそこが大好きだった。
2015年に最後の改訂版が出て、
本来であれば去年新装版が出るはずなのだが、
これがなかなか出てこない。
2018年もそろそろ暮れていくから、
これはちょっとやばいのではないだろうか?
廃刊の2文字が脳裏を横切る。
インスタ映えの時代に、
ビジュアルのないグルメ本は、
明らかに倒錯しているのだろうか?
大家の随筆のような文体が、
「ちょっと何言ってるかわからない」のだろうか?
「食べログ」などのネットの情報に席巻されて、
紙の媒体の出る幕ではないのだろうか?
真相はまったく分からないけれども、
このままフェイドアウトするような気がしてならない。
食文化を探求する、
といえば聞こえがいいが、
要するに食い意地のはった時代が終わろうとしているのではないか。
食べることは快楽であり、
生活の中心であり、
生きる原動力であり、
要するにいいことずくめであった時代が、
遠ざかろうとしているのかもしれない。
審美的にも、
健康的にも、
現代では飽食よりも、
食べない文化に軍配が上がる。
70年代の終わりに上京したとき、
自分はシティロードとぴあとグルメ本を手放さなかったが、
たしかにあの頃と現代とでは、
時代の風音がすっかり変わってしまった。
柴田啓佑監督の長編映画『あいが、そいで、こい』の撮影は、
大部分が紀伊田辺の海水浴場で行われた。
演劇でいうところの、
シチュエーション・コメディの技法が採用されたわけだが、
この手法のすぐれたところは、
登場人物と舞台を固定することによって、
おのずとエピソードに必然性が生まれ、
物語に求心力が働き続けるところにあると思う。
登場人物と舞台が限定されることは、
作り手にとっては大きな制約になるから、
よほど自信がなければ手を出せないジャンルでもある。
この夏は毎日『あいが、そいで、こい』
のラッシュ・フィルムと向き合ってすごした。
もともと音楽的なイマジネーションが乏しく、
劇版が初めての体験となる自分としては、
ひたすら画面と向き合うことで、
動画が潜在的に秘めているリズムを発見し、
そこにフォルムを与えること以外、
責任を果たせないだろうと思っていた。
もしも自分が足を引っ張ったらどうしよう…
その思いは今も消えてはいないが、
夏の盛りは恐怖と背中合わせの毎日だった。
今回柴田監督の作品から学ばせてもらったのは、
映画も一種の音楽ではないか、
という気づきだった。
役者さんの台詞や動きに合わせてモチーフを作り、
これを展開しながら音楽を組み立てるのだが、
何も計算していないのに、
出来上がったトラックが、
ピッタリ画面と同期する偶然が何度かあった。
それどころか一つのサウンドトラックが、
異なる場面にすっぽり収まることすらあった。
奇跡だろうか?
いや必然ではないか、
と作業の最終段階になって思い至った。
監督は形のない音楽を聞きながら、
演出し、撮影し、編集しているのにちがいない。
監督が感じていた音楽のすべてを、
自分が聞き取れていたとは思わないが、
何がしかの真実は宿ったかもしれない、
と信じて最後のアクセルを踏み込んでいこう。
東京ミッドタウンで開催されている「音のアーキテクチャ展」で、
勅使河原一雅氏の「オンガクミミズ」を鑑賞した。
この企画展は、小山田圭吾さんが書き下ろした曲に、
複数の映像作家が動画をつける、
音楽と映像のコラボレーションであり、
最先端の映像作家の競作を楽しむ場となっていた。
勅使河原さんの作品は、
群を抜いて美しく、迫力があった。
芸術作品のエンジンは、
作家の生命力の強さであり、
イマジネーションの豊かさであることを改めて教えられたような気がする。
小山田圭吾さんの新曲は、
記号操作の域を出ておらず、
芸術的な野心をあまり感じさせないものだった。
長く聴いていると疲れる種類の音楽なのだが、
映像によっては、
あっという間に聞こえるところに驚いた。
時間を短く感じさせる、
数人の作家の一人が勅使河原一雅氏だった。
映像を音楽にリンクさせると、
どうしても説明がちになってしまうのだが、
勅使河原さんの作品は、
観客を思いもかけない場所に連れ出した。
芸術作品というものは、
すべからく「驚き」を内包していなければならない、
と自分は普段から考えている。
ありふれた場所からはじまって、
イマジネーションが観客の予想を上回り、
見たことも、聴いたこともない地平に連れ出したとき、
芸術家は初めて責任を果たした、
といえるのではないだろうか。
器用で、かしこそうな作品が多いなかで、
勅使河原一雅さんは根源的な生命力をほとばしらせていた。
(「音のアーキテクチャ展」は10月14日まで)